堕落繊細大学院生のつぶやき

日々感じるあれこれを思うがままに書くブログです。

最近ふとかんがえたこと

私は基本的に,人の善意に頼ったシステムは信頼できないと考えている.

山形県の町役場で起きたコロナ支援金の事件に対していろんな人がいろんな意見を言っている.使い込んでしまった男性が悪いだの手続きを誤った職員が悪いだの,誰かに責任を押し付ける意見が多々見られる.

でも私は,誰が悪いと責め立てる行為にあまり生産性を感じないので,そうした意見全て無意味だな,と思っています.

責めたって使ってしまったお金がどうにかなるわけではない.それなら今後起きないようなシステムは何かないのか,を考えた方がよっぽど有意義だと思う.

この国はとにもかくにも感情で人を制御することが大好きだな,と日ごろから感じています.

コロナのマスクも移動の自粛もそう.

一人をやり玉にあげて徹底的に叩いて,それを見た周りの人間が勝手に行動を自粛する流れをいったい私たちは何回見たのだろうか.

マスコミは「はいみなさんこれを一斉に叩きましょう」と言わんばかりに誰かのほめられないような言動をさも重大な罪のように報道して,私たちは親の敵と言わんばかりに批判して,批判を恐れて勝手に黙り込む.

それを繰り返していきながら,息を吸うのもためらうような窮屈な世界が形成されつつあります.

今回のことも私からすれば「だから何?」感はすごくあって,いや,確かに税金が悪用されたんだな,と思うと腹立たしい気持ちになる気はするけど,カジノにつかったとか,パチンコに使ったとか,そんな情報いる??

とにかく誰か悪い人間がいてくれればいいみたいな,そんな思惑すら透けて見える.

確かに社会的制裁は人が悪いことをしようとするときに一瞬ためらわせるだけの効力はあるけど,ここでためらう人間は端からお金を使い込まないと思うので,正直報じるだけ無駄だと思うんだよな.

じゃあ行政を責めるか,と言われればそれこそ見当違いな話で,ヒューマンエラーだとしたらもう何もいえることなくない??いくらウン千万を背負っていようと間違えるときは間違えるし,人に聞けばいいじゃん,なんてそもそも担当の人が人に聞くほどじゃないと思ったらもうそれで終わりなんだよね.

避けられた事態だと思うけど,100%避けられたかと言われれば,登場人物変えない限り同じことは起こりえたと思う.

 

そしたらもう,どんな悪い考えの人間が来ても,どんなおっちょこちょいが来てもある程度同じ事態が起こらないようなシステム考えるしかなくない??

 

ここでもう一つ言いたいのが,何か物事が起こったときに「これは〇〇の怠惰が起こしたことだ」と責め立てるのも違うんだよな,ということ.たしかに誰かの怠惰で起きたこともあるけど,実際に起こってみて初めてわかることも多いと思っていて(まあ重大なことは一回の失敗も許されないんだけど),それを「怠惰」で片づけるのもまた,思考停止しているのと変わらないので成長もクソもないんだよね.

 

だから,起こってしまったことを謝罪するのは大事だけど,謝罪を求めるだけじゃ能はないし,そんな時間は無駄なので,いかに「感情」という不確定要素に頼らないシステムを作るか,そこを一回議論したいな,と思った今日この頃.