堕落繊細大学院生のつぶやき

日々感じるあれこれを思うがままに書くブログです。

一人の時間

なんとなく最近、私の周りがにわかにせわしなく、それに合わせて私の心もせわしない日々が続いています。

 

「仙台」で「一人暮らし」じゃなくても大丈夫だと心に言い聞かせるため、ありとあらゆる手段でそれなりにちょっとずつ無理をしながら、なんとか心の平穏を保ち表面には何も見えないように一生懸命色々してきたけど、やっぱり無理をしている分、壊れるときはあっという間なんだなと、そんな絶望的な気持ちに苛まれています。

 

ただまあどの話も、私なんかのメンタルより当事者の方がよっぽどしんどいってこと知ってるし、当事者のみなさまには早くどうか元気になってほしいと、この気持ちに嘘はないのですが。

 

もうこれは4月ごろからずっと思っていて、思い続けているうちにぐちゃぐちゃになって絡まって、どうすれば自分の中で折り合いをつけられるのか、そもそもはじまりは一体何の感情で、周りに何を求めているのか、もう何もかもわからなくなっています。

でもこんな感情もってるなんて知ったら絶対悲しむじゃん。

だから蓋をして、なるべく墓場まで持っていこうとしていて、

だから一生懸命気を逸らそうと仕事やら遊びやらにかまけていたのですが、

なんか罰が当たったのかなぁ…

罰の当たり方がすごく性格悪いなって感じする。まあ性格の悪い私にはお似合いですけど。

 

自罰的な文章書いてるけど、実際はそんなに深く凹んでいません笑

いや、早くこのモヤモヤから解放されたいなとは思っているし、やっぱり皆さんには早く元気になってもらいたいとは思っていますが、私の心はいつだって「誰にも文句は言わせない。文句言うなら私が出ていく」という気持ちでいっぱいなので、それだけでとても力がみなぎってきます。

文句言ってくれることだってありがたいことだ、と私の恩人は言いそうだけど。

でも、私は私のやりたいことをしたい。だって私の人生だもん。だからやっぱり最終的には私がしたいように私はするつもりだよ。たとえそれが親不孝だなんだと責められたって、今後私がそれを後悔したって、それも含めて人生でしょ?

 

話を戻すと、やっぱり私は戦わなきゃいけないと思うんです。

笑って流すだけじゃだめだ。言われたことを甘んじて受け入れるだけじゃだめ。

そんなの続けてもいつか私が爆発してみんなを不幸にするだけだ。

どんなにへそを曲げられようと、何度皮肉や嫌味をぶつけられようと、私は私の心を守らなきゃいけない。私の心を守ることこそが周りを守ることにもなるんだ。

 

愛情と矛先だね。

社会人3か月目

「大学院生」という肩書を失って3か月が経ちました。

生活は大きく変化しました。

 

朝早く起きるようになったし、夜早く寝るようになったし、とりあえず今のところは明るいうちにおうちに帰れるようになったし、おかげさまで昨日なんか夜眠れねぇ!という贅沢な悩みまで生まれちまったぜ。

 

日々は(今のところ)とても楽しいです。

これまで圧を受け続けていたので、180度どこをみても優しい人しかいない環境ってやばい。

外に連れて行ってもらって毎日新しいことを学ぶのが楽しい。

仕事は本当に楽しいなって思うんです。今のところ。

この仕事でやれるようになりたいことも夢もたくさんあるし。

 

じゃあ今、私の中にあるこのモヤモヤした感情は一体何なんだろうか。

って考えたとき、やっぱり不自由さと大好きな人に会えない環境、そしてこのモヤモヤした感情をいつまで抱えて生きていけばいいんだという先の見えない不安なんですよね。

 

贅沢なことを言っているな、と自分でも思います。

この間までdeath or liveみたいな気持ちで生きていたというのに今は最低限の生活が保障されたうえで「もっと楽しく生きたい!!」みたいなことほざいてますよ。

 

 

 

 

 

 

思い出はずるくて、いつまでも綺麗で、もうこれ以上汚くなることなんてないんですよね。

修論きついなぁと言いながらなんとかその日の目標分を書き上げ、毎週土日ご飯を作っていたあの日々がなんだかんだでめちゃめちゃ楽しかったなぁって。

ギリギリの精神状態で、体力ゴリゴリに削って、そんな大学生みたいなこと、大学生にしかできないよね。

実験失敗したら「失敗したぁ~」って近くの公園に呼び出しちゃうんだよ。

今から考えたらすごく贅沢な時間。

 

別に一人の時間だって楽しかった。

毎朝起きて学校さぼろっかなぁとか、今日帰り道CDショップ行こうかなぁとか、今日〇〇食べたいなぁ食べよ~とか、毎週旅行しちゃえ~とか、すごく自由。

 

一人暮らししたいのは家族といたくないんじゃなくて、少しでもあの苦しくも楽しい大学時代の生活に少しでも近づけたいから。

 

高熱が出たって聞いて何もできないのが悔しいよ。

 

 

24歳になりました

誕生日ということで,何かを残そうと思い立ちPCを開きました.

 

といってもあまり実感はないのですが.

 

 

23歳は本当にたくさんいろんなことがありました.

 

まずは就活.

 

一年前はまだ未来のことなんて何も見えなくて,自分に自信がありませんでした.

 

研究もうまくいっていなかったしね.

 

でも,目の前の面接をとにかく一つ一つ全力で取り組んで,公務員試験の勉強を頑張って,そんなことをしている間に気づいたら内々定を複数もらい,国家公務員の総合職の官庁訪問も通っていました.私が必要とされていないと感じていた世界は私を必要かもしれない,と思ってくれた,そのことは私を少し安心させました.自己肯定感.

 

自分に何ができて何ができないのかわかったこと,できることをどのように伸ばしできないことをいかに避けるか,それを学べたのは非常に大きかったと思います.

 

 

そして修論

 

自分の誕生日が修論審査会なんて,と思ったけど,でも恐らく人生で一番苦悩した「研究」を審査される,一定の評価をもらえる,ということが誕生日プレゼントとは粋だな,と思いました.

 

結局最後まで研究は好きにはなれませんでした.胸を張って発表ができたわけでもありません.大学院なんかM1でやめてしまってもよかったと実は今でも思っています.でも最後の一か月に自分でいろいろ考えながら実験したり,自分で調べながら修論を書いたりしたことは,私に自分でもできるのだという自信と,死に物狂いで戦う戦い方を身につけさせてくれました.あのときやめてしまってもよかったけど,通い続けた意味がなかったとはおもいません.

少なくとも一年前の自分より今の自分はずっと好きです.

 

 

さて,せっかくなので24歳の抱負を綴ろうと思います.

 

色々な人の支えのおかげで私はようやく「余裕」というものを手にできるようになりました.だから,その余裕で周りの人の感情をすくいとりたいと考えています.

 

今はまだ,自分の物差しでしか考えられないし,自分に利益がある行動しかとることができないけど,せめて自分が大切だと思う人に対しては心から無償の愛が与えられるようになりたいと考えています.

 

思考はトレーニングでいくらでも変えることができると,いろんな人に教えてもらいました.なのでいつかきっと,無償の愛が注げるようになると信じて,かりそめの愛を育てていきたいと考えています.

大学院生活をふりかえって

修士論文を無事書き終え,迫る修論審査会に向けスライドを作る日々を送っています.

 

何度もメンタルを折られ,何度もやめようとしてきた大学院での生活ももう残りわずかになったところで,今後またメンタルが折れそうになったときの自分や何かのきっかけでこの記事にたどり着いた,意識も自己肯定感も低い大学院生に向けて,大学院生を経て私が思ったことを記録しておこうと思います.

 

①他人の評価を一切無視し,「卒業」のためだけに存分に他人と時間を使う

修士と学士で何が違うのか,何を会得しなければならないのか,大学院に入った当初,私は真剣に考えすぎた結果,「私は大学院を卒業できないのでは…?」という気持ちにいなりました.

学部4年で周りの先輩から「学部時代にたくさん聞いておいた方がいい」と言われていたこと,先生から「大学院生だったら自分で実験をデザインしてできるようにならなくてはいけません」と何度も言われたことにより,「大学院生はレベルの低い質問をしてはいけない」「大学院生は自分で調べて研究を進めなければならない」という強迫観念に襲われていました.

 

ただ,修士2年でそれまでとは毛色の違う,新たな実験に取り組んだとき,これら強迫観念はあくまで「努力目標」にすぎないと気づきました.

 

レベルの低い質問をしてはいけない

→確かにちょっと調べたりちょっと考えればわかることはなるべく聞かないよう努力すべきではありますが,聞けば避けられた失敗やケガをするくらいならどんなに怒られようと他人に聞くべきです.そもそもその質問のレベルが低いと誰が決めたことなのか,とも思います.

自分で調べて研究を進めていくべき

→自分で実験系を考えることは大事ですが,はじめからできるわけないんですよね.考えた実験系を先生と相談することを通して「研究者の思考プロセス」を少しずつ学習しよう,くらいの気持ちで十分だと思いました.

 

どちらも,意識することは大事ですが,「大学院生に必要なスキル」というわけではなく,「大学院の2年間で獲得するスキル」なのでは,と私は考えます.私は教員ではないので必ずしもそうだ,とは言い切れませんが,たとえ大学院生に必要なスキルで今自分になかったとしても,大学院生活で少しずつ学んでいけばいいと思うんですよね.

 

だから,スキル云々を考えている暇があったら目の前のやるべきことを淡々とこなせばよかったのだと思っています.

たとえうまくいこうがうまくいかまいが,目の前のやるべきことをこなしていれば少なくとも何かしらのデータは得られます.指導教官がどのくらい面倒を見てくれるかで変わるとは思いますが,何かデータがあれば何とか調理してもらえるはずです.

 

今,スキルがなくたって,研究をする中で確実に身に付きますし,最悪スキルが身につかなかったとしてもデータさえあれば卒業できます.他人からの評価を気にせず,とにかく自分が卒業する(=データを集める)ために時間と他人を存分に使うことが大事だと思います.

 

 

②ありのままを認める

他人のありのままは許容できるし,自分のありのままを他人に認めてもらいたいとは思っていても,自分のありのままを自分で認められる人ってどのくらいいるのでしょうか.

 

意外といるのかな…

 

私は認められませんでした.認めるという発想もありませんでした.

例えば,ちょっとさぼりたいな,と考えたとします.そのとき,私は「これはさぼりじゃなく,休息だ」と正当化したうえでさぼってきました.

この根幹には「さぼりたい」という感情が持つべき感情ではない,という考えがあります.

 

これ,一見自分のメンタルを守れているように見えるのですが,もう「さぼり」という自覚を持ってしまっているので全然気持ちは楽にならないんですよね.正当化している分余計自分に対する嫌悪感がすごいわけです.

 

でも最近,さぼりたいと考えたとき,「ああ私はさぼりたいのか」と自分の感情を一旦正面から受け止め認めるようにしました.そうしたら,案外ちゃんとさぼれるようにもさぼらず頑張れるようにもなりました.

 

自分でもどうしてそんな風になったのかよくわからないのですが,「認める」という行為を通じて冷静になれるのだと思います.

 

正も負もどっちの感情も,評価せず「存在」を認める.感情に振り回されがちな人はやってみてほしいです.

 

 

③自分はやればできると信じる

一時期「YDK」という言葉が流行りましたよね.

この言葉はできない自分を正当化する言葉みたいな捉えられ方をされがちですが,基本的にやってできないことはないと私は思っています.

 

そもそも「できる」の基準が人それぞれちがうのだから.

 

研究も先生とのコミュニケーションも,スライドも修論も,私は全部「できない」と心の奥底ではずーーーっと思っていました.

でも実際,「少なくとも私ができる全力で」という条件は全部達成できました.

 

それを先生がどう評価するかは別の話です.

先生が最初から高評価をするようなものが作れたら学ぶ必要はないわけで,そんな人は博士に進んで研究者になるべきなんですよね.

 

だから,できないって最初からあきらめるのではなく,とりあえずやればできる,と言い聞かせてそのときそのときの全力を尽くせばいいと思いました.

愛情と矛先

Mrs. GREEN APPLEの「愛情と矛先」に最近とてもハマっている.

 

Mrs. GREEN APPLEに出会ったのは6年くらい前の関ジャム.鯨の唄を丸山くんとコラボしているのを見て,素敵な歌詞とメロディーだなぁと思ったのが最も古い記憶.

 

次はうみの杜水族館のイルカショーで聴いたSpeaking.当時は知らなかったけどさわやかでノリが良くてこれもまたいい曲だなぁと思った.

 

次は2020年の自粛期間.元欅坂46の平手ちゃんを脱退後初めて見たWanteD!WanteD!.ノリが良くて何度か繰り返し聞いた.

 

そこから間がだいぶ空き今年の春,めざまし8のテーマソングとしてダンスホールを聞いた.

 

なんとなくずっとこの人たちの曲好きだなぁと思っていたけど,なかなか足を踏み入れなかったミセス沼.

 

9月ごろ知人からバンドサウンドの沼に落とされたことをきっかけに色んなバンドの曲を聞いていた.その中で,そういや私ミセスの曲結構好きだなぁと思い出して知っている曲をYouTubeで聴き始めた.

 

そしたらもう加速度的にはまったよね.

 

最初は青春の爽快感が素敵だと思って,青と夏,Speaking,StaRtとかをずっと聞いて,次にちょっと暗めの曲がいいなと思ってインフェルノアウフヘーベン,パブリック,ツキマシテハあたりを通過しました.

 

で,ファンのおすすめ曲的なやつをみて片っ端からプレイリストに入れていましたが,その中に冒頭で書いた「愛情と矛先」がありました.

 

爽快感があるわけでも暗いわけでもなかったので最初はずっと聞き流していたのですが,メンタルが地獄に落ちたとき,ふとYouTubeに上がっていたライブ映像を見てみました.それがきっかけ.

 

 

愛情と矛先の歌詞解釈については様々な人が書いているのでそっちを参考にしてほしいのですが,この曲を端的に言うと「傷だらけで戦う人に向けた応援歌」らしいです.

 

私はかなり恵まれた環境で育って,身につけた愛嬌と鈍感さで誰かに頼りながらあまり傷つかずに育ちました.日々悩んではいるけど,基本的には前に進むことが当たり前で,悩んでいるのはプラスアルファみたいなところでした.

でも研究室に所属してから,私が持っているものが何一つ効果を持たなくて,これまで通りに過ごしても誰も助けてくれない,卒業できるかさえわからない,不安な日々を送るようになりました.

 

(この「誰も助けてくれない」に気づいたのがつい一週間前なので,そのそも気づくのに二年かかっているのですが)

 

まさに生きていくために,自分の力で戦わなきゃいけない,そんな局面に立ったわけです.

 

でも戦うのは責任を伴うから怖い.誰かに批判されて傷つくのも怖い.

 

私がこれまで避けてきた「戦う」という行為が避けられないことに気づいた今,たくさんの恐怖で胸がいっぱいになりました.

 

そんなとき,「愛情と矛先」で「傷ついた心を癒してあげよう」「錆びついた心を癒してあげよう」と歌うわけです.

 

戦うことは避けられない.それは傷つくことから逃れられないことも示しています.どうしても傷つくことは避けられないけど,その傷ついた心を癒してくれる場所がある,弱い私はその場所があって初めて戦う覚悟を決めることができました.

 

 

そして最後,「大丈夫だよ,安心して,君の強さは偉大なものだ」と続きます.

 

戦って勝てるかわからない.負けることの方が多い.戦う中では心が折れてしまうことも,そんな自分に対して嫌気がさすことも絶対ある.でも,そんな私に「君の強さは偉大」だと言い切ってくれるんです.強さってそもそも一つの尺度で測れるものじゃないから,言われたら本当に自分が強く思えるのです.

 

ああもう,すごくいい曲だな

22.11.30

私の強みは言語化できること,それを外に発信できること,らしい.

 

なるほど,それを強みと呼ぶことに釈然としないところはあるものの,言われてみればその通りだと思う.

 

できないときは大きな声で「できない!」と言うし,悩んだときは全身で悩んでいることを表現する.

そのことにためらいがあまりない(もちろん教授に言うのは無理だけど).

 

そのおかげで昔から私には複数のセーフティーネットが存在していた.

 

 

昔からそうだったか,と言われるとそうではない.

友達ができないとか運動ができないとか,そういうのは恥ずかしくて口に出せなかった.

それと,暗い話をするのはいかがなものか,とも考えていた.

 

でもいつの間にか,友達ができないことも勉強に追いつけないことも簡単に口から出せるようになっていた.

 

 

人に話すとき,私が意識していることがある.それは,「大丈夫」をもらうだけの話をしない,ということである.

 

本当は「大丈夫」の一言で元気になれるけど,「大丈夫」発言マシーンにさせられるのは私自身がしんどいから人にもさせたくない.だからなるべく他の人の哲学が聞けるように問題をかみ砕くようにしている.

 

その努力の結果が,「言語化」につながっているんだろうな,と思う.

 

本当はちょっとくらいためらったほうがいいのは知っているし,周りに頼らず自立している人を見るとかっこよくて憧れる.いつまでも人に甘えることはできないなんてことは私が一番よく知っている.

 

そう思って,ちょっとずつ自分自身で自分の機嫌がとれるように頑張ってきた.

自分でできることを増やそうと思ってなるべく頼らないようにしてきた.

 

で,その結果,見事に限界まで感情を溜め込んで文字通り死にそうになりました.てへ.

 

やっぱり私には向いていないようです.

 

向いている,向いてないで話をするのは逃げのようで少し嫌だけど,でも思考の癖は人それぞれなのでやっぱりちょっとくらいはあるんじゃないかな,と思う.

私は自分の中でぐるぐる思考すると自分を攻撃する方向にしか思考がいかなくなって,何も進まなくなるので,やっぱり周りに話して思考を整理するのが一番いいみたい

 

 

こんな弱い自分じゃ嫌われるんじゃないか,と不安で仕方なかったし,いまも不安だけど,でもそれが私である以上,仕方のない話なんだ.

それで愛想を尽かすならどうぞ尽いてください.

私が明日も明後日も健やかに生きていくためには綺麗なだけじゃだめなんだ.

諦めること逃げること適当な理由をつけて自己正当化すること,やれることはなんでもやるべきだ.

 

生き抜くためなら

棒に振れ

水を差せ

煙に捲け

油を売れ

現を抜かせ

 

 

支離滅裂や

22.09.23

クワセクシャル以前に、私はそもそもしっかり女の子なのだろうか、という問いにたどり着いた。

 

クワセクシャルについては結構確実にそうだと思う。これはもう二週間くらいずっと考えているけど、そもそもの定義自体に揺らぎがあるので、今後どうなるかわからないけど、とりあえず今はそうなんだと納得するためにこの名前を拝借しようと思っている。

 

さて、自分がしっかり女の子なのか、について。

かわいいものが好き、かわいい服が好き、それだけで本当に自分が女の子であることを決定づけることができるのだろうか。

 

私は化粧をすることもかわいい服を着ることも好きで、そうして一通り着飾った私を見て「あー今日もかわいくできた(※当社比)ー」って思うのが好きなんですけど、でも化粧をするのはコンプレックス隠しだし、かわいい服を着るのは単に私の顔つきや体系がそっちの方が似合うから、で、感覚としては着せ替えごっこのゲームを楽しんでいる感覚に近い。

 

それは、女の子だから抱く感情なのか、と聞かれるとそうではなく、たぶん男の子だってそういうのは好きなはずなのだ。

 

そもそも私が女の子たらしめている価値観、言動は私本来のものなのだろうか。

どこかで誰かによって恣意的にゆがめられた可能性だって完璧には否定できないだろう。

人間、些細な違和感は無視できるし、自分の本当に大切な価値観さえ侵害されなければ基本対応できてしまうものだと私は考えている。だから、「女の子なんだから」「女の子らしく」と言われても大抵は「あーはいはいわかりました。」と思って大体はスルー出来た。

これが違和感がないということはまあ女の子なのかもしれない。

 

 

ただ、全部をへらーっと笑って流せるか、と聞かれるとそうではない。

女の子だからできなくて当たり前、と言われると無性に腹立つし、女の子だから足を閉じなきゃいけない、と言われるとめんどくさって思う。女の子らしい口調をしようとすると全身の鳥肌が立つ。

かわいいものがすきで、かわいい洋服がすき。男の子には胸がときめく。でも、いわゆる女の子らしさを自分からやろうとすると、演技ならいけるけど素では無理。恥ずかしさがでる、というのもあるし、この恥ずかしさを分析すると、「女の子と思われる/思われようとしている」ことへの嫌悪感なので、結局私は意図的に女の子をするのが生理的に受け付けないのだ。

 

調べてみると同じような人はたくさんいて、その原因が過去のトラウマだという人もいる。トラウマがないわけじゃない。私は自分が可愛いとは思えないけど、自意識だけは過剰なので「かわいいと思われているかも」とか、「〇〇くんは私のこと好きなのかも」みたいなことは今でも定期的に考えている。そしてそれが外れていることを知ると恥ずかしさで死にそうになる。このサイクルを繰り返していくうちに自分に対する自信が地に落ちたことはあると思う。

でも、たぶんそれくらい、きっとみんなあるでしょう?

たぶん一般的に言われているトラウマはもっとそんなんじゃなくて、明確に言葉にされたことなんだと思う。

加えて、そのような人に向けた記事を読むと最後は「自己肯定感をあげて少しずつ自分が女の子であることを認めよう」みたいな言葉で占められているんですけど、別に私は今後女の子らしくふるまいたいとも思っていなくて、なんならその一文をよんでブチ切れそうになった。

そういうことじゃない。私は、女の子らしくふるまわなきゃいけない状況が気持ち悪くてふるまわなくていい方法を探しているんだ。と。

 

今まであまり「自分の性別に違和感がある」という言葉にピンと来ていなかったけど、私のこれもグラデーションの濃淡はあれど違和感の一種なのだろうか。