堕落繊細大学院生のつぶやき

日々感じるあれこれを思うがままに書くブログです。

はっぴーばーすでー

誕生日を機に,23歳の私について書いておこうと思う.

集中的に考えて悩みこむくせに喉元過ぎれば熱さを忘れる人間の私は,今考えていることを明日には忘れてしまうだろうから.

 

私は百人一首では「心にも あらで憂き世に ながらへば 恋しかるべき 夜半の月かな」という歌が好きだ.

高校時代この歌に出会ったとき,雷に打たれたように衝撃を受け,感動した.

 

当時は英語でミュージカルをする,珍しい部活に所属していた.歌もダンスも英語の発音も演技力も全部劣っていて,加えて怠惰な人間なもので周りとの差に打ちひしがれていた.

勉強はそれほど苦手ではなかったけれど,テストに関してはこれから戦争に行く人なのではないかというくらいおびえていた.

加えて対人スキルが低い私は友達もできず,クラスの中で居心地の悪さを覚えていた.

とにかく右も左も前も後ろも全部ふさがれて苦しかったのを覚えている.ふりかえってみればなんてことはないんだけど,それでも当時の私は苦しくて仕方がなかった.

 

そのときに出会ったのがこの歌だった.

 

時代の寵児藤原道長によって立場を追われた三条院が「この辛い世の中で思いがけず長生きしてしまったのなら,きっと苦しい思い出今見ているこの月すら懐かしく思うのだろう」とうたったこの歌は,八方塞がりだった当時の私の感情と強くリンクしていた.天皇として国のトップに立った人間が,1000年の教養も大してない人間の共感を呼ぶことがシンプルにすごいと思った.

この歌はただただ現状に悲観しているだけでなく,また過去を懐かしんでいるわけでもない.つらかった昔だって今見れば恋しく思うのだから,きっと未来の自分も今を恋しく思うのだと,俯瞰してみているのだ.過去と今を比べて今が悪いとも言っておらず,ただただ過去を恋しいと歌うだけのこの歌は,苦しい歌なのに燃え盛る熱い感情はなく,全体から受ける印象は非常に静かで,この歌が詠む「夜半の月」を体現している歌だ.

 

私が今抱えている苦しい苦しい思いが,苦しい思いをしている未来の私が懐かしく思うようなものであればいいなと思う.

 

冒頭が長くなってしまった.

 

苦しい思いを書きたいと思ったのに筆が進まない.進まないことが苦しい.

 

実は一週間前くらいから,誕生日に何かを書こうと決めていたのだけれど,書きたいことがないなとずっと思っていた.

 

書きたいことがないほど充実していればよかったのだけれど,残念ながらそういうことではない.

 

 

 

私は最近,私を見失っている.

 

 

 

昔は歌を聞けば,小説を読めば,ドラマを見れば,直に私の心が揺さぶられたものだったのに,最近は全然そんなことにならない.

昔は捨てるほどにあった私の中の言葉がなくなっていっているのを感じている.

私が何をしたくて,何を大切にしているのか,昔は確かにここにあったはずの感情がどこを探しても見つからない.

 

ただただ毎日,やるべきことをやって,やらなきゃいけないことをやって,それで一日一日が消えていっているのだ.

 

今日の誕生日だってついに無感情になってしまったのだ.

 

自分が自分でないようで,2月8日生まれの「私」はこれを書いている『私』とは別で,祝われるたび外側の「私」が感謝をするけど,当の『私』は実感がなくて,何を祝われているのかわからなくなってしまった.

 

私はどこにいるのだろう.

 

自己分析をするほど,ESを書くほど,面接を受けるほど,「私」ができていくのに,できていく「私」は『私』の手から容易に逃げ去ってしまう.

好きな人と話す私は,相談を聞いてもらっている私は,どっちの私なんだろう.

感情はどこに行ったのだろう.

 

どこに行きたいのだろう.

 

就職をすれば何か見つかるのか,反対にどんどん私が離れていくのか.

わからないけれど,時間のない私は今日も私を形成しながら一日を消化するのだろう.

 

でも悔しいから,今日は美味しいものを食べて美味しいケーキを食べて,楽しい動画を見よう.

今日,2月8日だけは『私』が『私』のために『私』として過ごしてみることにします.