堕落繊細大学院生のつぶやき

日々感じるあれこれを思うがままに書くブログです。

眠っていたい日中と眠りたくない夜中

小さい頃は夜が嫌いで昼が大好きな子だった。

 

特別快活だったわけじゃないし、友達も多い方ではなかった、というか少なかったのでいつまでも遊べるから~~という理由ではなかった。

 

単純に暗闇が怖かったのもあるが、みんなが寝てしまい、世界で一人取り残される感覚に底知れぬ恐怖を覚えていた(新聞の配達員さんが新聞を投函してくれる音に救われたことが多かった)。

 

 

最近はすっかり逆になった。

 

日中に活動するのも好きだけど、夜中に人通りが少ない街を歩いたり、暗闇でドラマを見たりすることが好きになった。

 

いつから好きになったのか、詳細は思い出せないけれど、大学で一人暮らしを始め、孤独に慣れたことがきっかけだったと思う。

 

できることなら深夜から早朝まで一人でひたすら町を歩いてみたいと思っている。

まあ、直近でなかなかに怖い経験もあったし、そもそも私が女子という時点でそれは難しいことだろうとは思うけど。

 

 

 

 

 

 

 

 

秋の夜長の風にあたりながら、自分の進路について書いてみようと思う。

深夜なので文章はめちゃくちゃだと思うけど、まあ未来の自分よ、許してくれ。

 

 

 

 

最近、ずっと私は今後の進路について迷っている。

 

これは多くの人から贅沢な悩みだと言われ、私自身もそうだよなぁと思いながら、眠れない日々や悪夢にうなされる日々、家族にうまく伝えられないもどかしさやちょっとした拗れなどにさらされている。

 

二つの進路について、ざっとまとめると

・「明らかにブラックだけど肩書が強くて収入が多い」か「薄給でそれほど肩書が強いわけではないがホワイト」

・A(ブラック)からB(ホワイト)に行くことはできるがB(ホワイト)からA(ブラック)に行くのは茨の道

・もともと行きたかったのはBで、Aは記念に受けてみた感じ。

である。

 

私のポリシーは「やらない後悔をするくらいならやってする後悔」「迷ったら難しい方を選ぶ」なので、あとで転職しやすいなら、新卒でAに入って挑戦するのが丸いかなぁなんて思っていたりした。

(実際、先輩からも社会見学的な感じで入ってみればいい、と言われたしね)

 

でも、いざAにしようと思って電話しようとすると、手が止まる自分がいました。

 

Aにしようとするたび、脳内で「本当にそれでいいのか」と尋ねてくる声があります。

 

何がそこまでひっかかるのか。

 

両方選ぶにはこれしかなく、後悔を最小限に抑えられるのはこれが一番丸い。

挑戦しないなんてもったいない。

 

理性的に考えればそれでいいはずなのに、あと一歩のところが超えられないのです。

 

そして先日、いろんな人に相談しながら気づきました。

私は私が思っていたよりずっとBの仕事がやりたくて仕方がないのだと。

車で季節を感じながら現場を回り、いろんな人の支援をする生活にあこがれているのだと。

そしてそれは、Aの仕事をすることで5年先に送りたくないくらい今やりたいのだということ。

 

何度も言いますが、理性的に考えれば、Aの仕事を選ぶのが丸いです。

若さが必要な仕事ではないし、別に5年早く始めたからと言って何が変わるわけではありません。

 

でも「今の私」がBの仕事をしたいのです。

 

この3年間、いや、振り返ればもう10年以上、将来のために我慢我慢を続けてきました。

いつもいつも今の私をないがしろにしがちだけど、今の私がしたいことをしたってよくない?

 

Bを選ぶことは理性的ではない、と語ってきましたが、実は冷静に考えた上でBを選択すべきな理由があります。

それは、Aの仕事が嫌だと思ったとしてもBに転職できない可能性が高いことです。

私はこの通り、丸く収めるのがすきで、なるべくリスクをとらないように生きてきた人間です。そんな人間は、給料とかポジションとか出来上がった人間関係に縛られて転職しないだろうな、という予感しているのです。

転職が自由になった社会で逆行した考えだと思うのですが、最初から転職ありきで考えるのはどうなんだろう、という違和感もあります。

それとたぶん、前述のとおり、Bに対するあこがれの気持ちが大きすぎるので、AからBに転職したくなっても、BからAに転職したくなることは恐らくないと思います。

あるとすれば、成功した同期たちを見て、「私もAを選んでいれば…」と思うことくらいでしょうか。

でもそれは、ただの承認欲求にすぎません。

承認欲求が満たされないと欲求不満になりますが、承認欲求だけでは生きていけないと、これまでの経験から思います。

私は、自分で思っているよりずっと頑固なので、どんなに言葉をもらっても自分がなりたい自分の姿を変えることはできないし、なりたい自分になれない限り他人にどれほどほめられたところとて満足することはありません。

だから、肩書だけじゃ満足できないんですよ。

裏を返せば、肩書がどんなのでも自分がなりたい自分であればそれで十分だと思います。

 

話がそれました。

 

最初に私は、挑戦したい人だと書きました。

私は挑戦を、頭のいい人に囲まれる中で努力すること、体力的に大変な状況において戦うことと考えていました。

でも本当にそうなのか。

切り取る場所を変えれば、「身体的につらくても、金銭と身分と定期的な自己承認欲求が満たされることが保証される環境」とも言えます。

だからBを選ぶことを逃げだと思う必要はないのかもしれません。というかないです。私の状況で選ぶのはちょっとした茨の道だと思います。そこを自分の意思で選べるなら、これは立派な挑戦ではなかろうか?

 

 

うだうだ書きました。

こんなに考えたのは初めてかもしれないです。

こんだけいっぱい考えても実はBの仕事が嫌いになるかもしれません。

でも、今の私が最善だと思う道を選んだのならそれが最善なのです。

公務員は転職しにくいというけど、まあいざとなったらどうにかすればいい。

 

 

 

 

P.S.

前半と後半で文体違いすぎて草。

なんか心理的なものなのかな?笑笑

 

Twitterをログアウトしてみた

久しぶりに消えてしまいたい気持ちになりました。

 

私は調子いい人間なので元気な時は何も書きません。つまりこの3か月くらいはずっと元気でした。

とか下書き時点で書いてたんですけど、ブログ見返していたら一か月くらい前にも鬱っぽくなってましたね笑

 

就活がいい形で終わったこともあり、自分はすごい人間なんだ、と思って過ごしていました。

 

先週あたりから、ふと考え事をすることが増えました。

 

きっかけはあるけど、正直いつもあったようなことなので直接それ、というわけではありません。ただただ勝手に凹んでいるだけで相手は何もわるくありません。だからここではあえて書きません。

 

そこから今まで二週間弱、重なり合うように悪いことがおきました。正確には、一旦暗い方向に思考が傾くと自分を取り囲む環境一つ一つに悪い解釈をしてしまいがちなので恐らく今回のこともそれなのだと思います。だから悪いことが何だったのかも書きません。

 

この間の土日、いつも話を聞いてくれる友人に久しぶりにこの静かに暗い感情を吐きだしました。

おかげで少し、いやかなり回復しました。とても感謝しています。

私はその友人のことが好きだと思っていました。いや、思っています。一時はいい感じになったらいいな、と思っていました。

でもそれもただの自惚れ。そもそもこんな欠陥がある人間に恋愛なんて早い。早いというか無理。

 

話がそれました。

 

卑屈で承認欲求だけバリバリ強くて、そんな自分がもう嫌いで仕方がなくなって、そんな自分をよしよししてほしくて、そんな自分も嫌いで、もうそんな堂々巡りがずっと続いています。

 

こんなとき私はすぐに他の人に「なんて私はだめなんだ」と言っては「大丈夫だ問題ない」と言ってもらって保ってきましたが、それもなんていうかすごくあさましくていやになってきました。

 

そんななか、昨日から学会の勉強会のようなものが行われました。

そこで出会った全国の学生の人と会話しました。

知的好奇心であふれみんな楽しそうでキラキラしていてすごかった。

質問の質も高かった。

私なんか年齢だけ上がって何にも身についていないんだと改めて実感しました。

 

この3年間、私は何をしてきたのだろうか。

愚痴ばっかり吐いて、何か少しでも努力をしただろうか。

本当に先生たちが悪かったのだろうか。

 

考えれば考えるほどせりあがる何かを感じて辛いものがあります。

 

こんなとき、私はいつも人に話してすっきりしていました。

 

でも今回は、それではいけないのではないか、と考えています。

正直前述の友人には話すと思います。慰められも叱咤激励もされないので気が楽なのです。

それ以外の人には秘めようと思います。

 

他の人に話したらきっとこの悔しさを免罪符にしてしまうから。

 

 

でね、ここまで考えたとき、私はTwitterもログアウトしようと決めました。

 

これまで私は自分の思うことをつらつらと書いてきました。

攻撃的な内容こそないけれど、私の暗い感情があふれていてきっと読んでいて気持ちいいものではなかったでしょう。

それをこれまで認識していましたが、どうしても誰かに認めてほしくてだらだらと続けてしまいました。

人を不快にするのは望みではありません。

正確には、不快にさせたくないのではなく、不快にさせることで嫌われたくありません。

そして何より、もうこれ以上誰かに慰めてもらって回復する弱い人間であり続けたくありません。

 

それだけではありません。

私は文章を書くことを通じて、とるにたらない感情を拾っては増大させていました。

大きい感情を持てば心のバランスを失います。

そして日常生活に支障をきたし始めました。

 

これらの考えもあり、私は私を守るため、一刻も早くTwitterをログアウトすべきと考えました。

 

言いたいことをいうだけで他人のツイートを読んでいませんでしたから、わざわざTwitterを使わなくても、こうして壁打ちのツイートをしていればよいのです。

必要な情報は趣味垢から取り入れればよいのです。

 

Twitterをログアウトした瞬間、少し気持ちが軽くなりました。

 

誰かに認められなくても、私が私を認められるような、私が好きでいられる私を目指して少しずつ頑張ろうと思います。

久しぶりの鬱

就活が終わり研究がはじまってから、また気分が沈むことが増えました。

 

心当たりはありすぎるのですが、ここではあえて内的要因について考えてみることにします。

 

 

 

 

就活期間って自分のことだけ考えていればいいので楽でした。

 

表だけ繕っても意味がない、とよく言われますが、基本的に表を繕えばよくて、自分の性格云々を考える必要はありませんでした。

 

自分の得意なこと、苦手なことなど「仕事上自分が使える人間か」に眼を向けていればよかったので、身近な人に対する態度とか頭のよさとか考える必要はあまりありませんでした。

 

でも日常生活に戻ると、否が応でも気にしなければならない場面が多いです。

 

疲れました。

 

人とうまく話ができないこととか、偉そうな態度をとってしまうこととか、思っていること全部口から出てしまうこととか、どうしようもなく人を傷つけたくなってしまったりとか、そういう自分の嫌なところが人と一緒にいるとどんどん出てきてそのたび私は布団をかぶりたい気持ちになりました。

 

頑張って明るくふるまって、その分自分が削れていく感覚がどうしようもなくつらい。

 

悩みなら聞くといろんな人が言ってくれるけど、悩みを吐き出して自分が弱い人間だと自覚してしまうのもつらい。

 

辛いけど悲しいかな、そのように行動してしまうことが止められないんですよね。

 

私が自分の外の人間と交流をするための武器はそれしかないから。

 

憎まれ口をたたくとか、変なことを言って笑われるとか、それしかつながり方を知らないので、人と一緒にいるとどうしてもそうしなきゃいけないんです。

 

だから私は一人になりたい。

 

今は、どんなに仲良い人でも一緒にいるのが辛い。

 

明るくしなくても、黒々しい感情を吐かなくても、相手に合わせて目をキラキラさせなくても、ただただ隣で息を吸って吐くだけでいいような、私に明るくふるまうことも静かにすることも許してくれるそんな場所にいたい。

 

これまでの経験上、一週間くらいで回復するから、どうかそれまで

空虚

ときどき私は,すごく空虚だな,と思うことがあります.

そして,空虚であることを静かな気持ちで受け止めてしまう自分が恐ろしいしつまらない人間だな,と思います.

 

はじめに空虚だと実感したのは,就活し始めたころ.

自己PRとかガクチカとかを書くためにいろんなHPを参考にする中で,自分の研究がまるで価値のないものに思えてしまいましたし,やりたいとだけ思いながら結局ボランティアをしてこなかったし,そもそもなんのために大学通っていたんだろう???と思っていました.

(その結末として,お昼ごはんがのどを通らなかったり毎日泣きはらした目で登校したりエスカレーターを降りながら「今ここから落ちたら全部楽になるのかな」と思うなかなかやばめなメンタルになったわけですが)

 

そこから適度に研究をさぼったり,いろんな人に相談したりするなかで,「自分がやってきたことだって自分しか持っていない経験だ!!!」と語れるようになりましたし,ありがたいことに数社から内定をいただくことによって自己肯定感も高まりました.

 

私が試験と並行して民間就活をしていてよかったな,と思うのは,自己肯定感が爆上がりになったことはもちろん,面接や面談の中で様々な人とお話させていただいて視野が広がったことです.

 

インターン時期無限にお祈りされてきたこともあって自己肯定感はどん底だったし,社会人になる資格ないのかもなぁと思っていたし,「就活は戦争だ!!!!」みたいな焦りもあったのですが,いざ本選考始まってみると,お会いする社会人の方はみなさん私たちに少なからず興味を持ってくださいますし,聞けばなんでも教えてくださって,いろんな生き方,考え方を知ることができました.

 

いろんな生き方を知ることで,「私の生き方はこのままでいいんだ」と真に心から肯定してあげることができました.

 

この経緯から私は一年前の自分がやばい状態だった,と冷静に見つめられるくらいにメンタルが落ち着いてきたわけですが,この「私空虚な人間だ」という気持ちは形を変えて今,私に襲い掛かっています.

 

 

 

 

私は昔から,良くも悪くも感情が表情によく乗る人間でした.

 

言葉をうまく発することができない分(コミュ障陰キャだったため),表情で相手に感情を伝えて様々な場面を切り抜けてきました.

 

高校で演劇を始めてからもこの表情の豊かさは有用でした.

 

この表情がのる,というのは話すことがある程度できるようになった今でも便利に使わせてもらっていて,例えば説明会とかで「興味を持っていますよ」という表情を作っておけばまず不快な思いはさせませんし,強く印象に残すことができます.もちろん興味はあることが前提ですが,他人よりも伝わりやすい,というのは非常にアドバンテージになります.

 

 

 

しかし,いいことの裏には悪いことがある,というのが世の常で,あまりにも感情を載せるのがうまくなりすぎた結果,私は自分の感情を見失うようになりました.

 

表情に感情をのせるのが便利すぎて,私は心に浮かぶ様々な感情を増幅させて表情で表現するようになりました.

一般の人は,表情に出るほどの想いは強い,と受け止めがちです(「興味持ってますよ」作戦もこの前提があるから強く働きます).

これが合わさった結果,「私は大して思っていないけど,他の人から見たらすごく強く思っているように思われる」という事態が起こるようになりました.

 

なにか不都合なことがあるかと言われれば別にこれといった不都合はありません.

「熱意がある」と評価してくれることも多いので,むしろ私的には非常に都合がいい.

ただ,これを繰り返すうちに,相手の頭の中に「熱意があって,〇〇が好きな人」という「私」が形成されていって,「〇〇やりたいって言ってたよね?」という仕事のふられかたをするようになります.

 

他人からの言葉が人間に与える影響力というものは大きいもので,「〇〇好きだよね?」と言われれば好きな気しかしなくなります.

私は相手のもつ「私」に無意識のうちに近づけてしまい,気づけば私とは程遠い私を演じてしまうようになりました.

 

これが辛いな,と思った瞬間が最近,就活をしていて訪れました.面接の準備をしていたり面接をしていたりするときは「〇〇が心底好きでたまらない」という気持ちになるのですが,いざ同じ企業を受ける就活生たちと話をすると,その「好き」に大きな差があって,しかも私みたいなはりぼての「好き」ではなく,心の底から好きで,そのために邁進してきたような人が多いことに気づかされます.

 

それに気づいたとき,私ってなんなんだろう,と激しく絶望してしまうのです.

ゴールデンカムイにハマった話(ネタバレ含みます)(あとで修正しよ)

最近ゴールデンカムイにハマりました.

 

就活中に何しているんだ,という気持ちには私自身もなっていますが.

 

別に何がきっかけだったわけではなく,研究室の同期から聞いたラッコ鍋の話や,私が好きなアーティストである「さユり」さんがMY FIRST STORYさんとコラボして歌っていた曲が主題歌だった,というところからなんとなく気になっていて,LINE漫画で一気読みキャンペーンが行われていたのでとりあえず読んでみよ~と思って見始めました.

 

いやぁもっと前からハマりたかった~~~~

 

ヤングジャンプで最新話まで無料で読める機会があったときいてすごくすごく悔しい気持ちなう.

 

私は小学生時代銀魂が好きだったのですが(意図せずどちらの作品も「日本史をモチーフにしたフィクション」「下ネタ多い」という共通点を持っていますね),どこが好きだったのかって泥水すすって生きているような人物が繰り広げる熱い物語が好きでした.

 

登場人物ひとりひとりが脛に傷を持っており,まっとうには生きていない.それを自覚したうえで高い理想を掲げ自らの意思で人生を選択する姿に胸が熱くなります.

 

中でも私は鯉登少尉がとてもいとおしいなと思います.

 

ボンボンで戦争経験もない.盲目的信者で純粋無垢でアホの子.

 

最初の印象はまた変なキャラ出てきたな,しかも強いのか,面倒くさいな,でした.

でも今は,光を背負った未来の象徴にみえます.

 

鯉登少尉のいいな,と思うのは,おかれている状況を客観的に見れるところと物事に白黒つけるのではなく,グレーゾーンの存在と認められるところです.

 

 

 

尾形が鯉登少尉に少しの違和感を残して去ったとき,鯉登少尉は月島軍曹が言うように尾形の言うことなんか信じられない,と切り捨てることもできたはず.

尾形は自分の大好きな鶴見中尉を裏切った存在であるので,鶴見中尉の盲目的信者である鯉登少尉からみたら「言動を信じたくない」存在であるはず.

でも鯉登少尉は尾形の発言から,自身の誘拐未遂事件について仮説を立てます.

この仮説は鯉登少尉が鶴見中尉を疑わなければ導けない仮説であることから,鯉登少尉は自分が大好きな人間のことであっても客観的事実から仮説を立てることのできる冷静な人間であることがわかりました.

あんだけ大好きだったのに「そんなはずはない」と打ち消すことなく,自分の力で真相に近づいちゃうのすごいな.

尾形は鯉登少尉が気づくこと気づいていたのかな???

たぶん読者を含め,鯉登少尉がここまで冷静で頭の回る人間だとはわかっていなかったのでは…?と個人的には思っています.

 

鯉登少尉は樺太で成長した,という風に見ていますが,鯉登少尉の過去の話でも,自分の主観に流されることないで物事を考えられる描写はあるので(日本の防衛のために自分は切り捨てられるであろうということに気づいていたり,実際父に告げられてもそれを恨んでいない),もともとその素質はあるのだろうと思います.

あとまあ,素直でまっすぐな性格もあるんだろうな.

 

 

グレーゾーンの存在を認められる,というのは谷垣とインカラマッの逃亡のときに思いました.

 

指示を受けていても命を守る判断を下す,騙されていたけど,騙されていたことを理由に鶴見中尉を悪と決めつけない.

 

さっきの「客観的に」ということにつながりますが,鯉登少尉はすごくバランス感覚のいい(物理的にも心理的にも)人間なんだな,と思いました.

容易に善悪をつけず,自分が納得できるまで判断を棚上げし,今できるベストを考える.

これは指導者として大事な姿勢だと思います.

 

鶴見中尉の部下だから鶴見中尉の味方,でも,谷垣を見逃すから杉元の味方,でもない,自分が正しいと思うことをするだけ.

自分の行動の責任を自分でとるたくましさも見えます.

 

 

 

やば.盲目鯉登少尉信者を醸してしまった.

 

もちろん,鯉登少尉は100%正しいわけでなく,初期には詐欺師を問答無用で殺していますし,キロちゃんも本当に殺すまでする必要があったのか(シーン自体はかっこよかったとはいえ)疑問に思うので,人命に対する倫理観に疑いの余地はあると考えています.鯉登少尉かっこいいいいいいというのはこの漫画の世界観を考えたときあまりよくないな,と思うので,そこは読者としてバランス感覚を大切にしたいと思います.

 

残り10話程度でどうなるのかわかりませんが,同期からは「鯉登少尉は最後まで光だよ」と言われたので期待してなんとかしてボーナスコイン貯めて読もう.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ゴールデンカムイ,全巻揃えようかな……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

<追記>

全部読みました.鯉登少尉は最後まで光だったけど,最後までずっと迷っていたのだな,という印象です.樺太編で成長した,と申し上げましたが,函館決戦も彼の成長の血肉になっている気がします.

そして,上記の文章を書いたときは鯉登少尉を「味方」としてみていましたが,鯉登少尉はあくまで第七師団の第27連隊の軍人なんですよね.

だから最後の最後まで軍として行動するし,部下を守ることを第一に行動する.

谷垣家族は危害を加えてきたわけではないので危害を加えるのは道理に合わない.

でも土方さんとかキロちゃんとかみたいに軍に危害を加えてきた人間は見逃すわけにはいかない.

 

鯉登少尉が日本の未来を背負うように思っていたけど,彼が背負うものは第七師団であり,彼の成長は軍の上官としての器の成長なんだな.

 

と考えたら,なんとなく思考が整理されました.

 

戦前日本の価値観で部下を守る思想があるだけでも十分光だよな…

男女の間の友情

男女の間の友情が成立する,しない,は昔から議論されてきました.

その問題は今,まさに私にとって重大な問題になっています.

 

悩んでいるのは私自身が成立しないと考えているけど,友情が成立した方が都合がいいと考えているからなのだと思います.

 

…とここまで書いて,今私がぶつかっている壁の本質はこれではないな,と気づいてしまいました.

 

成立しないと考えたいのは,今私自身が「好きだなぁ」と思う相手と笑っちゃうくらい仲がよくて,これが相手が友人としてではなく異性として好きであってくれたら嬉しいな,という感情から起因するもの.

あと,これから書く「成立する」と思うようになったこれまでの経験がもし「成立しない」なら私が単純にモテてモテて仕方がないからです.

人生クソだなと思う一方でやっぱり私だってモテたいし,恋人ができなかったことの引け目を感じたくないわけです.

 

 

 

 

 

ただ私は,誠に遺憾ながら成立すると考えています.

 

 

 

 

 

私自身,同世代の親戚には同性の子しかいなかったのですが,小さいころから異性の友人が多い友人が多く,それなりに関わる機会が多くありました(コミュ障陰キャなのでクラスカースト的にはたぶんめちゃめちゃ低かったけど).

中学生になって人間関係にめちゃめちゃ悩むようになりましたが,同性より異性の方が面倒くさい人間関係を無視してまっすぐ見てくれるので孤独を救われる場面も多くありました.

正直,同性よりすごく話しやすいと思っていた時期もありました.

 

同性の人間関係は時に難しいなと思うときがあります.

何か行動をするとき,同性同士でグループを組む,みたいな場面が多いから,一人きりにならないためには精一杯同性に気を配らなければいけないと思ってしまいます.

それと,異性相手なら価値観が違っていたとしても「まあ性別が違うから」という理屈でスルー出来るし,ある程度の寛容さがありますが,同性にはその理屈は使えない以上,直接人格レベルで合わないということになります.ずれていい価値観の幅がそれなりに狭く設定されている気がします.

 

だから私は,最初から性別という盾である程度距離を保つことのできる異性との人間関係の方が気が楽だな,と思っていましたし,今も実際思っています.

 

 

 

そんなこんなで比較的異性の友人(と呼べるレベルかは正直微妙)が多かったわけですが,一回も恋愛関係に発展したことはありませんでした.

 

大学に入学してからも同じで,そもそも大学自体男女比が狂っているので周りに異性が多かったのもありますが,これまでより一層深い付き合いになる友人が増えました.

二人で遊ぶこともあるし二人でご飯食べることも当たり前にしているわけですが,じゃあそんな雰囲気があるかと言われれば,友人以外の何物でもないわけです.

 

 

 

だからやっぱり,異性の友人という概念は存在するのだと思います.

 

 

 

冒頭で「存在しない方がいいと思っている」と述べましたが,私は,世界中の人間が「男女の間の友情が成立する」という考えになってくれれば,永遠に友達であってもいいと思っています.

 

でも,残念ながらそんなことはなく,男女が二人で遊べば恋愛関係を疑われるのが常なわけで,結婚している人と二人で遊べばいくら友情だと言い張っても浮気だ不倫だと言われるのです.

不倫と友情の判別方法が難しいし,どこからが浮気なのかわからない,のでそれは仕方がないのですが.

 

 

 

そんなこんなで「男女の間の友情が成立する党」に所属する私は,少し困っていることがあって,それは「友情と恋愛の違いがわからない」ということです.

 

キスしたいとか手をつなぎたいとか,そういう感情があればそれは恋だと言われたことがありますが,正直私は別にそうは思ったことがないし,いや,思うことはあるけどそれは少女漫画である程度洗脳された部分があるので,記号的な意味でそういう行動がしたいと思うにすぎなくて,本質的にそういうことがしたいとも特段思えないのです.

 

それは冒頭に書いた「好きだなぁ」と思う人に対する感情もそう.

 

「愛される」ということにあこがれて,「愛される」の象徴として「キスしたい」みたいな.

 

好きだなぁと思う人に好かれたい気持ちはあるけど,じゃあその好きはそれこそ永遠に男女の間の友情が成立するならそっちでもいい好きな気がしているのです.

 

そしてそういうことに関しては,別に「したくない」ではなく,むしろ反対で,性別はもはやどちらでもいいし,生理的に受け付けないみたいな相手じゃなければ本当に誰でも構わないな,と本気でそう思っています.

 

 

 

思いがけず生生しい話になってしまった.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここを考え始めると,男女の間の~という楽しい話題ではなく,「私ってもしかして人間を道具としてしか見ていないのかな」みたいな考えに至るので(いま実際かんがえてしまっていた),一旦保留することにします.

 

 

 

 

相変わらずまとまりのない文だなぁ.後で清書しよ.

 

 

 

 

 

恋愛感情皆無な私は顔さえよければアイドルが天職だったんじゃないかしら.

最近ふとかんがえたこと

私は基本的に,人の善意に頼ったシステムは信頼できないと考えている.

山形県の町役場で起きたコロナ支援金の事件に対していろんな人がいろんな意見を言っている.使い込んでしまった男性が悪いだの手続きを誤った職員が悪いだの,誰かに責任を押し付ける意見が多々見られる.

でも私は,誰が悪いと責め立てる行為にあまり生産性を感じないので,そうした意見全て無意味だな,と思っています.

責めたって使ってしまったお金がどうにかなるわけではない.それなら今後起きないようなシステムは何かないのか,を考えた方がよっぽど有意義だと思う.

この国はとにもかくにも感情で人を制御することが大好きだな,と日ごろから感じています.

コロナのマスクも移動の自粛もそう.

一人をやり玉にあげて徹底的に叩いて,それを見た周りの人間が勝手に行動を自粛する流れをいったい私たちは何回見たのだろうか.

マスコミは「はいみなさんこれを一斉に叩きましょう」と言わんばかりに誰かのほめられないような言動をさも重大な罪のように報道して,私たちは親の敵と言わんばかりに批判して,批判を恐れて勝手に黙り込む.

それを繰り返していきながら,息を吸うのもためらうような窮屈な世界が形成されつつあります.

今回のことも私からすれば「だから何?」感はすごくあって,いや,確かに税金が悪用されたんだな,と思うと腹立たしい気持ちになる気はするけど,カジノにつかったとか,パチンコに使ったとか,そんな情報いる??

とにかく誰か悪い人間がいてくれればいいみたいな,そんな思惑すら透けて見える.

確かに社会的制裁は人が悪いことをしようとするときに一瞬ためらわせるだけの効力はあるけど,ここでためらう人間は端からお金を使い込まないと思うので,正直報じるだけ無駄だと思うんだよな.

じゃあ行政を責めるか,と言われればそれこそ見当違いな話で,ヒューマンエラーだとしたらもう何もいえることなくない??いくらウン千万を背負っていようと間違えるときは間違えるし,人に聞けばいいじゃん,なんてそもそも担当の人が人に聞くほどじゃないと思ったらもうそれで終わりなんだよね.

避けられた事態だと思うけど,100%避けられたかと言われれば,登場人物変えない限り同じことは起こりえたと思う.

 

そしたらもう,どんな悪い考えの人間が来ても,どんなおっちょこちょいが来てもある程度同じ事態が起こらないようなシステム考えるしかなくない??

 

ここでもう一つ言いたいのが,何か物事が起こったときに「これは〇〇の怠惰が起こしたことだ」と責め立てるのも違うんだよな,ということ.たしかに誰かの怠惰で起きたこともあるけど,実際に起こってみて初めてわかることも多いと思っていて(まあ重大なことは一回の失敗も許されないんだけど),それを「怠惰」で片づけるのもまた,思考停止しているのと変わらないので成長もクソもないんだよね.

 

だから,起こってしまったことを謝罪するのは大事だけど,謝罪を求めるだけじゃ能はないし,そんな時間は無駄なので,いかに「感情」という不確定要素に頼らないシステムを作るか,そこを一回議論したいな,と思った今日この頃.