空虚
ときどき私は,すごく空虚だな,と思うことがあります.
そして,空虚であることを静かな気持ちで受け止めてしまう自分が恐ろしいしつまらない人間だな,と思います.
はじめに空虚だと実感したのは,就活し始めたころ.
自己PRとかガクチカとかを書くためにいろんなHPを参考にする中で,自分の研究がまるで価値のないものに思えてしまいましたし,やりたいとだけ思いながら結局ボランティアをしてこなかったし,そもそもなんのために大学通っていたんだろう???と思っていました.
(その結末として,お昼ごはんがのどを通らなかったり毎日泣きはらした目で登校したりエスカレーターを降りながら「今ここから落ちたら全部楽になるのかな」と思うなかなかやばめなメンタルになったわけですが)
そこから適度に研究をさぼったり,いろんな人に相談したりするなかで,「自分がやってきたことだって自分しか持っていない経験だ!!!」と語れるようになりましたし,ありがたいことに数社から内定をいただくことによって自己肯定感も高まりました.
私が試験と並行して民間就活をしていてよかったな,と思うのは,自己肯定感が爆上がりになったことはもちろん,面接や面談の中で様々な人とお話させていただいて視野が広がったことです.
インターン時期無限にお祈りされてきたこともあって自己肯定感はどん底だったし,社会人になる資格ないのかもなぁと思っていたし,「就活は戦争だ!!!!」みたいな焦りもあったのですが,いざ本選考始まってみると,お会いする社会人の方はみなさん私たちに少なからず興味を持ってくださいますし,聞けばなんでも教えてくださって,いろんな生き方,考え方を知ることができました.
いろんな生き方を知ることで,「私の生き方はこのままでいいんだ」と真に心から肯定してあげることができました.
この経緯から私は一年前の自分がやばい状態だった,と冷静に見つめられるくらいにメンタルが落ち着いてきたわけですが,この「私空虚な人間だ」という気持ちは形を変えて今,私に襲い掛かっています.
私は昔から,良くも悪くも感情が表情によく乗る人間でした.
言葉をうまく発することができない分(コミュ障陰キャだったため),表情で相手に感情を伝えて様々な場面を切り抜けてきました.
高校で演劇を始めてからもこの表情の豊かさは有用でした.
この表情がのる,というのは話すことがある程度できるようになった今でも便利に使わせてもらっていて,例えば説明会とかで「興味を持っていますよ」という表情を作っておけばまず不快な思いはさせませんし,強く印象に残すことができます.もちろん興味はあることが前提ですが,他人よりも伝わりやすい,というのは非常にアドバンテージになります.
しかし,いいことの裏には悪いことがある,というのが世の常で,あまりにも感情を載せるのがうまくなりすぎた結果,私は自分の感情を見失うようになりました.
表情に感情をのせるのが便利すぎて,私は心に浮かぶ様々な感情を増幅させて表情で表現するようになりました.
一般の人は,表情に出るほどの想いは強い,と受け止めがちです(「興味持ってますよ」作戦もこの前提があるから強く働きます).
これが合わさった結果,「私は大して思っていないけど,他の人から見たらすごく強く思っているように思われる」という事態が起こるようになりました.
なにか不都合なことがあるかと言われれば別にこれといった不都合はありません.
「熱意がある」と評価してくれることも多いので,むしろ私的には非常に都合がいい.
ただ,これを繰り返すうちに,相手の頭の中に「熱意があって,〇〇が好きな人」という「私」が形成されていって,「〇〇やりたいって言ってたよね?」という仕事のふられかたをするようになります.
他人からの言葉が人間に与える影響力というものは大きいもので,「〇〇好きだよね?」と言われれば好きな気しかしなくなります.
私は相手のもつ「私」に無意識のうちに近づけてしまい,気づけば私とは程遠い私を演じてしまうようになりました.
これが辛いな,と思った瞬間が最近,就活をしていて訪れました.面接の準備をしていたり面接をしていたりするときは「〇〇が心底好きでたまらない」という気持ちになるのですが,いざ同じ企業を受ける就活生たちと話をすると,その「好き」に大きな差があって,しかも私みたいなはりぼての「好き」ではなく,心の底から好きで,そのために邁進してきたような人が多いことに気づかされます.
それに気づいたとき,私ってなんなんだろう,と激しく絶望してしまうのです.