大学院をやめなかった自分の正当化
3月も近づいてくると,いよいよ就活も本番がちかづいてきているなぁという感じがします.
最近,特に公務員の技術系の方の話を聞いていると,ふつふつ思ってしまうことがあります.
それは,なんで私は大学院に進んだんだろうということです.
以前のブログにも書いたように,私は一回,大学院をやめる一歩直前まで感情が進んでいました.
それは,研究職に就きたいなら修士の学位がいるけれどそうでないなら学士の学位で十分だからです.
私が大学院に進んだときは,研究職に就こうとしていました.
でも学部4年が終わるころには研究そのものに拒否反応を示すようになっていて,将来数十年も研究なんかできない,と思っていました.
研究職になりたいわけじゃないのに,研究をしている理由なんてなかった.
私が立ち止まっている間に周りからは院生の圧をかけられて,身も心もすり減らして,夜は眠れず昼は涙が止まらず,別になりたくもない研究者を目指すふりをしてやりたくない研究をする意味が本当にわかりませんでした.
それなら少しでも早く働く方が確実に仕事に必要な技能は身に尽くし,お金も入ります.
大学院は正直遠回りでしかありません.
色々考えた結果,私は,周りの言葉を受けて大学院を続けることに決めました.
決めたことに後悔はしていません.なぜなら私はどんなに非合理なことでも途中で投げ出すことが嫌いだったから.
きっとあの場所で逃げたら一生卑屈な自分を引きずることになっていたと思います.
でも私はずっと,感情以外で大学院に進んだことを正当化できる理由がほしかった.
社会人になれることが確定して少しだけ余裕ができたのか,今さっきふと気づいたのです.
そもそも遠回りで何がわるいのか.
私はそのときやりたいと思ったことを実行しただけで,それは大学からはじめたかるたと何が違うのか.
大学を自分の進路だと考えるから難しくなるのだと気づきました.
研究を学部3年時点でやりたいと思ったから大学院に行く道を選んだ,ただそれだけの話なのです.
もちろん,大学院生にふさわしい言動は必要なのかもしれません.
でも,社会人と違って大学院生が背負う責任など自分の実験結果以外持ちません.最悪先生に嫌われたってそれは責任が生じるものではないのです.
あの時点でやめていたなら合理的だった,それも正解.
だけど人生は合理的に生きるだけではつまらない,それも正解なのです.
大学院に進んだ,それは人生を少しだけ豊かにするスパイスに過ぎません.
将来子どもが万が一できたら「お母さんは大学院進んだんだよ~」って自慢する,自慢する材料が一個増えただけで儲けものです.
これでまた一歩前に進めるかな.